2024/10/18 初日
集合地の釜山空港からバスは西に向かったが、途中から激しい雨。ツアーは雨の風景から始まった。しかし、宿舎のコブクソン(亀甲船)ホテルのある統営市・弥勒島(ミルクド)に繋がる統営大橋を渡るころ、雨はやんだ。数日は雨混じりとの予報にもかかわらず、それ以後ツアー解散まで雨は降らなかった。
上左:雨に濡れた窓の向こうは統営・弥勒島
上右:コブクソンホテル(宿泊と催し会場)
下:ホテルの前は統営大橋の架かる水道(「統営運河」)
韓国の南岸の多島海に面した統営市は人口12 万人。本土と対岸の弥勒島などを橋が繋いで形成されている街。釜山から車で2時間ほど。造船業が地域経済を牽引してきたが、2010 年代の造船不況以来、雇用不安などが続いている。
(地図はすべてコネストから引用)
2024/10/19 2日目・午前
午前中壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で活躍した
将軍・李舜臣ゆかりの忠烈祠、洗兵館などを見学
2024/10/19 2日目・午後
朴景利記念館と墓前報告会
このツアーのメインイベントは「完全版『土地』全20巻日本語版完訳記念」企画である。まず午後、ツアー一行は、弥勒山の麓にある作家・朴景利の記念館と、そこから少し登った統営の海を遠望できる墓所を訪れた。
2016年11月のツアーでは、『土地』第1巻と第2巻の刊行を報告、その全20巻の完成を誓った。その同じ場所で、作家との約束を果たしたことを伝える出版社クオンの金承福さんをはじめスタッフの皆さんを日本からの読者たちが一緒に囲んだ形だ。
テレビや新聞など韓国の複数のメディアが注目、関係者への取材インタビューも行われた。
朴景利のポートレートについて
朴景利記念館にはこの作家に関する様々な資料がアーカイブされている。その中でとくに興味を引いたのは彼女のポートレートだ。『土地』には全ての巻に同じ写真が載っている。畑仕事をしている姿なのだが、手にしているのが唐辛子であることに今回気づかされた。その写真が記念館の入り口に置かれていて、その前の台のざるに盛られた唐辛子の赤が印象に残った。
壮年期の強い意志を感じさせる5枚組のポートレートも魅力的だったが、なんと言っても記念館に入って正面にあった薄いサングラスをした朴景利の写真がいい。登場人物たちに雄弁に語らせるこの作家が、しばし脱力したところをとらえた写真なのか、息を整えて次に何を語るのかなと思わせるのだ。
2024/10/19 2日目・夕刻
『完全版 土地』完訳記念祝賀会 & 夕食会
コブクソンホテルのイベントホールで開かれた祝賀会には日本からのツアー参加者のほか、韓国の作家や報道を含め100 人ほどが集まった。クオン代表の金承福さんの挨拶のあと、関係者からの祝辞がつづき、最後に編集を担当された藤井久子さん、翻訳を担当した清水知佐子さんと吉川凪さんの挨拶があり、三人に感謝状と花束が贈呈された。
その後、会場を同じホテルのレストランに移して行われた夕食会は、韓国語と日本語が入り乱れるなか、お酒の力もあってか、カラオケ大会の雰囲気を呈するに至った。まさか、ここで「ブルーライトヨコハマ」を合唱することになるとは思わなかった。いま韓国の中高年の間で日本の1970年代の歌謡曲がリバイバルしていることは帰国後に聞いた。
夕食会を盛り上げてくれた三人のお名前を挙げておけば、まず河東で書店を営まれている姜成晧さん。河東は『土地』にもしばしば登場する町で、姜さんはそこで「『土地』研究会」を運営している。もうお一人はパク・ジュヨンさん。大邱で書店「旅行者の本」をやっていて、2019年の文旅からのご縁。今回はツアーコンダクター、司会としても大活躍。最後にイ・ジスさん。彼女は祝賀会では統営市民を代表する感謝状のプレゼンテーターでもあった。
東洋初の海底トンネル⁈
私たちは統営までバスで来たが、『土地』では人は船を使って釜山との間を行き来する。明姫がそうだ。麗水まで行くはずのところを途中下船して統営の街を彷徨い歩く。いまのフェリー乗り場に彼女も降りたのだろうか。そばには漁港や大きな市場もあって繁華だ。その明姫はトンネルを通って弥勒島に渡る。
たしか戦前にできた「東洋初の海底トンネル」と訳注にはあった。明姫だけでない。仁実や緒方、燦夏たちもそこを通った。通ったことで物語が展開する、いわば仕掛けとしてのトンネル。朴景利が『土地』に書き込んだそのトンネルがコネストの韓国地図に載っていた。ここに来てそのことに気づいた以上、探さない法はない。幸い宿からもそう遠くない。ということで朝の探索で見つけた証拠が上の写真2枚。左が弥勒島側、右が本土側の出入り口。出来てそろそろ百年。散歩する人、買物袋を下げる人。トンネルには生活道路としての定着感があった。
ついでに言えば、傷心の明姫は統営で学校に勤めることになる。燦夏は、仁実、緒方と一緒に明姫に会いにそこを訪れるのだが、その学校の所在はトンネルの近くだと記憶している。とするならこの学校ではないかと撮影したのが下の写真。看板には1928年開校とあるからまんざら見当外れでもないとは思っている。
写真+文:山岡幹郎