このたびクオンでは
『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』を刊行いたしました。
詩人のキム・ソヨンさんがハングル一文字の言葉を
辞書のように”定義”しながら、
人生のさまざまな時間、情景、感情を描いた
私的で詩的な一文字の辞典を、
詩人の姜信子さんと8人の翻訳者による翻訳でお届けいたします。
*ためし読みはこちらから
メディア紹介・NEWS
・2021-10-03 北海道新聞 朝刊「文月悠光のあの本、気になる」 評者:文月悠光
・2021-10-20 統一日報
・2021-12-18 図書新聞3524号「21年下半期読書アンケート」 評者:内藤千珠子
・2022-05-17 第八回日本翻訳大賞を受賞
・2023-09-13 宝島社「リンネル特別編集 心を支えてくれた言葉、運命が好転した言葉。」 選者:前田エマ
監訳者あとがき —— 私の一文字は「 」。
人は誰もそれぞれに、唯一無二のかけがえのない人生という物語を紡ぎながら生きているものです。一つとして同じ物語はない。そして、それぞれの物語においては、たとえ同じ言葉を使っているとしても、それが「愛」とか「夢」とか「噓」とか「絆」というような誰もがよく知るような言葉だったとしても、そのどれもが微妙に繊細に異なる意味を持っているものです。当然のことです。言葉は文脈の中にあってこそ生き生きと意味を持つものなのですから。人生とはそれぞれに脈々と流れてゆく命の時間の賜物、それぞれの物語はそれぞれの文脈を持つほかないのですから。
だから、私たちは、自分らしく生きるかぎりは、自分だけの言葉の辞典を持つようになる。詩人キム・ソヨンが自身の人生とともにある、唯一無二の『一文字の辞典』を紡ぎ出したように。
彼女の辞典には全部で310個の一文字が収められています。
詩心と遊び心と彷徨う心とまつろわぬ心で織りなされる310個。
哀も歓も生も死も善も悪も虚も実も白も黒もぐるぐるめぐって分かちがたく混じりあって、そこに隠し味の毒を一滴。そんな310個。
一見ありきたりの一文字の向こう側に、故郷のようで異郷のような不思議な気配の風景が広がる310個。
その一つ一つに彼女の人生のさまざまな時間、情景、感情、思索が溶け込んでいる。これは空恐ろしいことです。しかもそこには、キム・ソヨンはいかにしてキム・ソヨンになったのか、という秘密も潜んでいて、それをうっかり受け取ってしまった私たちは、秘密と引き換えにまことに厳しい問いを突きつけられることにもなるわけで……。
ねえ、あなたはあなたの物語をあなたらしくちゃんと生きてる?
あなたの一文字辞典はどんな辞典?
実を言えば、私はキム・ソヨンという詩人を、この『一文字の辞典』をとおして初めて知りました。ほぼ二年がかりで八人の仲間と共に『一文字の辞典』を訳しつつ、310の覗き窓からキム・ソヨンという一筋縄ではいかない物語に少しずつ触れてゆくうちに、この厄介な詩人(もちろん賛辞です)をもっと知りたくなりました。
ねえ、あなたのその「厄介さ」はいったいどこからやってきたの?
そこで、まずは、『一文字の辞典』に添えられている詩人のプロフィールを見てみる。こんな言葉ではじまっています。
「誰も私に詩を書いてみたらなんて言わなかったから、詩を書く人間になった。詩集を読むことが好きすぎて、純度100パーセントの私好みの詩を自分で書いてみたくなった」
ねっ、一筋縄ではいかない人でしょう? いきなり厄介。こんなことを言われたら、ますます知りたくなるじゃないですか。
長い手紙を詩人に送りました。うれしいことに、長い手紙が詩人から届きました。詩人は、私からの問いに、そっと耳打ちするように答えてくれました。そのやりとりを少しだけ、ここに書きますね。
* *
姜……… 詩を読むのが好きすぎた少女は、どんな詩を読んでいたのですか?
詩人……大学に入って、大学図書館の片隅に詩集コーナーを発見したんです。そのときからです。意識して詩を読みはじめたのは。まだ紙の貸出カードが本の後ろの紙ポケットに差し込まれていた頃のことでした。貸出カードにはまだ誰の名前も書かれていない、まっさらな詩集ばかりでした。人が関心を持っていない世界だと思うと、なんだか神秘めいて、心が惹かれました。あの頃は、チェ・スンジャ(崔勝子)、キム・ヘスン(金恵順)、この二人の詩人の詩が好きでよく読んでいました。それぞれに新たな領域を拓いた両詩人も、あの頃はまだ新人でした。もちろん少女の頃も詩を読んではいましたよ。植民地期の詩人の中でもこの二人、「死ぬ日まで天を仰ぎ/一点の恥じ入ることもないことを」と詠ったユン・ドンジュ(尹東柱)、「わがふるさとの七月は/たわわの房の青葡萄」と詠ったイ・ユクサ(李陸史)が特に好きでした。
潔さと気迫。それこそが私が詩に求めているものです。
姜……… 純度100パーセントの詩とは、どんな詩?
詩人……ないことにされている場所を探しだして、そこに座標を打って、その場所に立って、なかったことにされている声で歌う詩。
詩人たちだけで通じあう極度の実験性が「アカデミックな監獄」だとすれば、大衆受けするような、甘ったるくて安易な抒情性もまた「監獄」です。この二つの「監獄」のはざまの本当に狭い領域を押し広げて、そのなかへと分け入っていきたいんです。私がこれまで学んで身にしみこませてきた文学性ではなく、この私からはじまる文学性へと挑んでいきたいんです。
詩人として生きてきて三十年ほどにもなります。このごろはとりわけ、一篇の詩を書くたびに、今のこの時代に対峙する力をバージョンアップしていきたいと思っています。同時に、詩を書きはじめた頃の、あの突き動かされるような純粋な発露から遠ざかるまいとも。この二つの思いを両手に剣のように握りしめていよう。そう強く思っているのです。
姜……… あなたの詩世界では、生の中に死があり、死は生へとつらなり、歓びの中にも哀しみが宿り、哀しみの中に希望が息づいています。生と死、歓びと哀しみ、光と影が、春夏秋冬のような円環の世界を形作って、くりかえしぐるぐるとめぐっているかのようです。たとえば、「강 河」(本書19ページ)という詩で、そんな独特な感覚を味わいました。この感覚、この詩世界は、どこからやってくるのでしょう?
詩人……… 死なのか生なのか、歓びなのか哀しみなのか、ただ一つの枠に収めようとはしないんです。収める直前に自分の感覚を止めて、ありのままを見つめようとするんです。わかりやすく言えば、「境界線を引かない」ということです。これはつまり、境界線を引くことを思いとどまるタイミングに関わることなのです。「哀しみは悲観的で、希望は楽観的」というような、刷り込まれてしまった「情緒脚本」(私、キム・ソヨンが作った言葉です)どおりに感じるのをやめて、すみずみまで感覚を研ぎ澄ませてゆけば、混じりあっている何かを感じ取ることができるのです。語るべき真実があるとすれば、これが真実なのではないでしょうか。これこそが、詩が大切に守るべきものなのではないでしょうか。
* *
しみじみとうれしくなるやりとりでした。潔さと気迫と守るべき真実。詩について語り合いながら、私たちは「いかに生きるべきか」について語り合っているかのようでした。あらためて気づかされます。詩とは書くものではなく、生きるものなのですね。思えば、『一文字の辞典』という本自体が、詩人の人生を形作ってきた言葉の数々によって織り上げられた一冊の詩なのですね。
そして、ふたたび、この問い。
ねえ、あなたはあなたの物語をあなたらしくちゃんと生きてる?
あなたの一文字辞典はどんな辞典?
私も、共に本書を翻訳した八名の仲間も、310個の一文字を前にしてわが人生を振り返りました。私たちもまた自分自身の一文字を考えました。それはおのずとそれぞれの個性のにじみでる一文字となりました。
詩人キム・ソヨンさんへの一文字辞典翻訳委員会からの応答として、そしてそれぞれの「一文字の辞典」の最初の一語として、私たちの一文字をここに記します。
* *
李和静(イ ファジョン) 「和」(화 ホァ)
この世に登場しこよなく愛され始めた記憶の原点となる名前の一文字。
不思議に日本でも最も愛される代表文字の一つ? ホァ、の音でいつも魂までホァ~
佐藤里愛(さとう りえ) 「愛」 (애 エ)
私の名前の一文字。里愛の「え」。 리애(リエ)の「애」。一文字辞典で偶然にも担当することになった「애」。「애」が私の人生にもたらしたものはとても大きい。
申樹浩(しん すほ) 「今」
今が私にとって一番新しいとき。今に感謝!
田畑智子(たばた ともこ) 「壁」
完璧を目指しているとよくこれにぶち当たる。そんな時は暫し寄りかかり休むもよし、梯子をかけてよじ登るもよし、穴をあけるもよし、迂回するもよし。その先にあるものに出会うために、思案する間、存在するもの。
永妻由香里(ながつま ゆかり) 「運」
私は運がいい。素敵な出会いとご縁。今の私が幸せを感じられて、その場にいられるのは、実力ではなく運が良かったから。ありがとう。
邊昌世(ほとり さよ) 「渚」
水はいつも何者なのかを問う者。
波は永遠の反対に向かうもの。
海でも空でも陸でもない
風となるところ。
透明で見えないが
確かにあるもの。必ずくる場所。
ずっと待っているところ。
誰も正確な所在など知らぬ処。
境界の狭間のいのちのちから。
月灯りを抜けてお日様に届きたいもの。
誰も侵せない場所。
焚き火をするのに絶好の場所。
いずれ歌い踊るための場所となる。
私が私にあげる名前。
バーチ美和(ばーち みわ) 「信」
これさえ手放さなければ、闇の中にあっても闇を歩むことがない。
松原佳澄(まつばら かすみ) 「我」
押しつけすぎてもあんまりだし、主張しなさすぎてもイマイチ。これを守り、信じぬいてあげられるのは私ひとりかもしれない。
本書の翻訳から刊行まで、ご助力くださったすべての方に感謝申し上げます。
2021年7月7日
「声」に耳澄ませて、呼ばれて、彷徨って、出会って、つながって、今ここに
姜信子
【書誌情報】
著者:キム・ソヨン
監訳:姜信子
翻訳:一文字辞典翻訳委員会
デザイン:恵比寿屋
刊行:2021年9月10日
ページ:288ページ
版型:四六判
製本:並製
ご購入はブックハウスCHEKCCORIほか全国書店にて