楽器たちの図書館 キム・ジュンヒョクワールド
志治 美世子(ノンフィクション・ライター)
新しい。明らかに新しくありながら、それでいて、歴然とした韓国なのである。どこでもない場所でありながら、私たちは韓国という国に身を委ねる。
キム・ジュンヒョクという音楽を通して、私たちは新しい韓国と出会う。文学という世界を自在に浮遊しながら。
物語は8つの短編によって成り立っている。表紙にあるブルーのヴァイオリンを手に取り、最初のページを開く。すると見開きの左側のページの、次のような言葉で始まる、ごく短いメッセージが目に飛び込んでくる。
「みなさんへ。
この短編集は僕からみなさんに贈る録音テープです。
テープには全部で八曲の歌が録音されています。」
左側には著者キム・ジュンヒョク氏自らによる録音テープと、夜の街に佇むうつむいた二人の青年のイラスト。
この録音テープを再生すると、再生の間中、不思議なことに頭の中ではずっと音楽が鳴り続けている。そこにあったのは、メロディを奏でる未だかつて出会ったことのない小説たちだった。「この録音テープ」にこめられた作家キム・ジュンヒョクワールドについて聞いた。
【志治】現在の日本では、純文学とエンターテインメント小説というふたつの流れがあって、風潮としてはエンターテインメント小説の流れの方が力を持ちつつあります。しかし私はこの「楽器たちの図書館」から、日本がどこかに置き去りにしようとしている、日本の文学から失われてしまった純文学のテイストを、強く感じました。
【キム】私自身は大学で国文学を学んでいますし、私の文学性は、韓国の純文学そのものを読むことによって育てられました。しかし私は、最初から小説家を目指して国文学を学んだわけではありません。高校生の時には小説のことは頭になく、むしろ詩を書いていました。
と同時に、大学時代にアメリカや南米の文学作品に数多く触れて、そういう翻訳文学から知らず知らずのうちに、有形無形の影響を受けていたと思います。
そのようなことが私の根底にあって、年月を経て小説を書き始めてからは、自分の書く作品は、純文学からすこし離れようと考えるようになりました。純文学から少し離れよう、距離をとろうという気持ちですね。
多分私の半分は韓国文学で、半分は外国文学によって作られているのだろうと感じています。
韓国の書店では、日本の作家たちの小説が、数多くならべられていて、キム・ジュンヒョク氏も好きな日本人作家として、村上龍と高橋源一郎の名前をあげる。が、キム・ジュンヒョク氏自身は、意外なことにモダンホラーの大家スティーブン・キングの名を一番好きな作家としてあげている。
【志治】エンターテイメント性の強いモダンホラーの作品と「楽器たちの図書館」は、対極に位置しているように思えるのですが。
【キム】作家として、自分が持っていないものについてこそ強く惹かれる。そのような傾向があると思います。自分が持っていないものだからこそ欲しい、また何か別のものを取り入れ、その異質なものと融合したいという気持ちはあります
【志治】短編集の最初の作品、「自働ピアノ」を読んだときに、この、「自働ピアノ」の中で語られているピアノ演奏について、私自身も聴いている音楽が、実は視覚的要素によって強く支配されていることに気がつきました。
例えばあるピアノ曲を聞いていて、男の人だったら繊細な演奏だと感じるかもしれないけれど、でももしその曲を女の人が演奏していたら、同じ音楽であるにも関わらず、力強い演奏だと感じるかもしれない、と。
私はキムさんが「楽器たちの図書館」の冒頭の短編「自動ピアノ」において、意識的にそのような男でも女性でもおかしくない、そういう壁を取り払った世界にすっと溶け込まされていく、とても中性的な世界へ誘い込まれていく感覚がありました。
【キム】中性的という言葉を使われましたが、自分自身でもほんとうに、中性的だと思っていますね。半々であるということ。
韓国文学と外国文学、それと同じく女性半分、男性半分が自分の中にある。それはアナログ半分、デジタル半分でもあります。同じような意味で、先ほどエンターテインメント色が強い作家も好きだと言ったのは、学んだのは国文学としての純文学ではあったのですが、そこに私自身のオリジナリティとしてのエンターテインメント性を取り入れたい。そういう中性の基準を、たしかに私は強く意識しています。
今まで出会いの中で、私が美しいと思ったもの、美しい人だなと思った人たちは、女性でありながら男性的なものを持っている、あるいは男性でありながら女性的なものを持っている。そういう本来的ではない部分に、実は美しいものを持っている、と私は感じることが多かった。なので、その自分もその中間。極端ではないことを取り入れたいと思いました。常にそのことを考えています。
【志治】現代の青年たちの、危うい、どこかふわふわしているけれど、すごくピュアなものを、とても軽快に、そして繊細に織り込んでいくことによって、軽やかな純文学として誕生させた作品集だと私は感じました。
登場人物たちの存在を、それぞれにかすかな不協和音のように響かせて、ストーリーというメロディにのせて、見事にオーケストレーションしていると思います。
【キム】それはこの本を書く最初の段階から、イメージしていました。ピアノの音とかオルゴールとかヴァイオリンとかのように、それぞれの音がメロディのように流れのあるものを書こうと。で、最後の作品、「拍子っぱずれのD」では、それぞれの音痴たちが壮大なメロディとなって流れていく、というようにです。
【志治】「拍子っぱずれのD」を読んでいると、僕とDとが一人の人物として立ちあがってきますね。
【キム】あの小説は、まさにそこからスタートしました。
「拍子っぱずれ」は本当に私にとってとても大事な作品です。人間にはキャラクターがあり、そこから物事は始まるのだというのが分かった。それを、自分のものにしたい、と思いながら書いた作品です。
純文学に軽ろみとしてのエンターテイメント性をテイストとして加えた作品を書けないだろうかと意図したときに、そういう意味で自分は、自分自身を中間性、中性性、ユーモアのあるもの、そういうものにもって行きたいと考えました。だから私の小説の中では、韓国の特定のものについてはいっさい用いていません。地名とか、商品の名前とか。そういうのを、はたしてこれは韓国のものなのか、韓国ではないと考えることもできるのか、そういうことを意識的に意図して書いています。読者に対して、韓国のものです、これは韓国の小説とは、注意深くあえて言わないでいる。むしろモチーフとして、韓国を特定するものが侵入してくることを警戒していました。
だからといって外国で翻訳されるだろうなどということは予想もしなかったのですが、韓国的なカラーを連想させるものを排除することによって、想像の幅を広げる、ということを自分は考えています。何かを特定すれば、特定したことによってすべてがそこに繋がってしまうからです。
【志治】なるほど! だから読む側が、音楽として流れる言葉を聴くことに集中できるんですね。
【キム】特定の国や場所、歴史的、文化的なものがあると、そこにイメージが集中して、連想してしまうわけです。それでは私が意図したところまでの発展を妨げてしまう。
それをあえてしないことで、同じ空間で遊べる。遊ぶことができる。それを最初から考えていました。
【志治】あいまいなものを、あいまいなままに、文学として表現する。
ハングル講座応用編のテキストとして取り上げられたのも、文字自体は沈黙していて音を発しない。自分では音を出さない、その静謐である文字が、和音となり音楽として立ちあがってきて、言葉、文章によるメロディとして流れていく。文章が音楽として鳴り響く。安易な言葉の変換を許さない、余白や響きをそのまま理解するという、高度な理解力が求められたからでしょう。
【キム】実はこれが私の作品の傾向でもあるのですが、評論家たちにとっては、評論しにくい作品となるという問題があります。論じにくいのでしょうね。
それから読者にとっても、これは何なんだ、簡単に「ここが好き」と言いにくい。極端な部分があれば、そこに食いついて飛びこんでくることができるのでしょうが、でも私の小説にはそういう極端さがないので、評論家たちが取り上げにくい。だから多分本の売り上げもあまりない(笑)。
でも、自分自身はそのあいまいさこそを基にして、それを書き続けたいと思っています。
そういう意味では、日本でなぜこの作品が翻訳出版されたのか、自分も不思議ですね、キャラクターが特別に個性的だったり、面白いわけでもない。とてもあいまいなものなのに。
【志治】非常に韓国的。日本人の私が読んでいて、とても韓国的だと思う。翻訳小説として成熟しているし、完成度の高さがそう思わせるのでしょう。
【キム】韓国では、「拍子っぱずれのD」と「ガラスの盾」への反響が大きいですね。韓国の読者に好まれているようです。
【志治】この短編集のタイトルである「楽器たちの図書館」は、交通事故で吹っ飛ばされながら、「何ものでもないままに死ぬなんて無念だ」という想念に取り憑かれた主人公の物語ですね。
つまり主人公は心の奥底で、「自分が何ものでもないこと」に強く支配されていた。生と死の狭間で宙を飛びながら、そのことに気がついてしまった。
ではそこから何かが始まるのか、といえば危うい日常をかろうじて綱渡りしていくだけで、不思議な五線紙に導かれるように、楽器たちの音を録音することに取り憑かれ、これもまた不思議な安定の中で「音の図書館」を作り上げていく。
ご自身にとっての楽器、とはどのようなものなのですか。
【キム】私自身はピアノが好きです。それからギターも弾きますが。
けれども、私は今まで習うことによって学ぶ、ということをしたことがありません。
「習うことも教えられることもしない」。それはもう自分でそう決めているのです。何故なら、習いに行ってテクニックを習得すると、とても効率的に、スピーディに物事を進めていくことができるわけですが、それは私のやり方ではない。実際に自分が独学することによって、時間はかかるけれども、一つ一つ、それぞれのものが真に自分のものになる。それを実感する。私にとってはそれこそが重要なのです。
この本の執筆には一年、二年ほどもかかっているのですが、それは同時に音楽について考え続けていた時間でもありました。
例えばピアノの音をポーンと押してみて、この音楽はどこから始まってどこに消えていくのかというようなことを、常に考えていた。常に考えていて、その答えを見つけようとして書いた小説ではあるのですけれども、答えはまだ見つかっていません。
【志治】音楽を音として聴く、音と音を明確に区別しながら、それをきれいにミキシングする、リミックスするという発想は、どういうところから生まれてくるんですか。
【キム】2006年に、最初の短編集、『ペンギンニュース』を出版したのですが、その時からすでに、音楽のリミックス、音をねじる、いじる、ということを意識していました。そしてそれはどこから来ているのかと考えたときに、その根底の、心臓が動く音、――ハートビート――そこから来ているのではないか、という気がしています。
それから音のリミックスというのは、また自分の小説のリミックスでもあって、自分が最初から何もかも新しくものを発見して書くというよりも、たくさんの人たちの作品、そこから影響を受けて、そこから自分が得たもの。さらにそこから、手を加えて作り出すことによって新たに生まれてくるもの、それが自分の小説のスタイルだと思っていますね。だから音楽というのは、そのひとつのカテゴリでもあるし、私自身、作曲している気持ちで小説を書いています。
韓国文学と日本文学が、今後どのようにお互いに影響し合い、成長を助け合っていくのか理想像のようなものはあるのだろうか。韓国から日本へ、伝えたいものはという質問に対し、
【キム】伝わることはとてもいいことですけれども、伝えたい、という気持ちだけが特別、私の中で強いわけではありません。
そしてちょっとはにかんだように笑って、こう言った。
【キム】韓国文学はそんなに広まらなくてもいい。日本の方々に、まずは私の小説だけ読んでいただければ、それでいいのです(笑い)。
まるでその言葉は、「ガラスの盾」の登場人物のつぶやきのように、私には聞こえた。
かつて私たちは、あたかも呼吸をするかように、ごく自然にアメリカ文学やフランス文学、南米の小説や戯曲に触れながら、自分自身のなかの日本を育ててきた。
実はこれまでのKブームは、あるそれぞれの瞬間を除けば、さほど私にとって興味あるものではなかった。キム・ギドク監督のある映画。ハン・ソッキュや、チェ・ミンシクの演技力。日本のアイドルたちが一様に幼さをベースにしていることに対し、外見のメロウさやソフトさを維持しつつその奧に「大人のテクニックのハードさ」を全身から発散しているK―POPの若者たち。それらはある時には色濃く、そしてほとんどはさらりと私の中を通り過ぎていく、どこかの街の風景のようだった。
が、この作品に出会って、私は確信した。これまでの冬ソナからK―POP、韓国食ブームにいたる源流は、ここに帰結するためのものだったと。
かつての欧米文学の文学者たちによって与えられていた、日本語で触れることのできる彼の文学者たちが愛した国々。私たちはまったく同じように、韓流ブームを通して、その土台が築かれるまでを待たねばならなかったのだ。
氷山の水面下としての韓国は、すでに大きく育っている。私たちはこれから、その氷山の頂点にある、一掬いの「極上の韓国」を味わう。文学という珠玉のテーブルの上で。
氷山の頂点をこれまでの水面下から押し上げた、この「楽器たちの図書館」の翻訳者に、最大の敬意を払いたい。波田野氏、吉原氏の蒔いた種が育ち、今後この翻訳者たちに続く多くの韓国文学継承者たちが、日本に広めて行くであろうものに期待しつつ。
プロフィール : 志治 美世子
医療、歴史、エッセイ等にて執筆活動中。著書に『東京江戸謎解き散歩』廣済堂出版、『信長の朝ご飯、龍馬のお弁当』『大貧乏大逆転』毎日新聞社(いずれも共著)他。『ねじれ 医療の光と影を越えて』集英社 にて第五回開高健ノンフィクション賞受賞。趣味は連句、最近習い始めたシャンソン、いっこうに上達する気配のないテニスなど。
ウェブサイト http://shiji.jp/
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