日韓の執筆者122人が<韓国・朝鮮の心>と出会える本を紹介している『韓国・朝鮮の心を読む』(野間秀樹、白永瑞 編、クオン刊)のなかで、翻訳者の吉川凪さんが朴景利著『土地』を取り上げています。
ここにその全文をご紹介します。/

「死ぬまでに一度は読んでおきたい小説」「完読チャレンジ」。朴景利[パク・キョンニ](1926~2008)の大河小説『土地』について韓国のサイトで検索すると、そんな言葉がヒットする。今でもこの作品は、韓国の人々にとって特別な存在であるらしい。『土地』が未完成だった頃、韓国の読者は 、今の日本で村上春樹の新作が発表されるたび話題になるのと同じように『土地』の新しい巻が刊行されるのを待ちわびていたそうだ 。2004年からSBSテレビでドラマ『土地』が放映されて高視聴率を誇ると 、原作はいよいよ存在感を増した 。
1969年から1994年まで断続的に書き継がれた『土地』は大きく五部に分かれている。朝鮮王朝末期の1897年から日本による植民地支配が終わった1945年8月15日までが作品の時代背景だ。朝鮮半島、日本、中国東北部、沿海州などを舞台に、大金持ちの両班[ヤンバン]から路傍をさまよう人まで600人以上の人物が登場する長大な物語の運命は、雑誌や新聞を転々としながら連載され単行本も出版社が何度も移るなど、作家自身の人生と同じく波乱万丈だった。クオンから刊行された日本語訳『完全版 土地』(全二十巻)は六番目の出版社マロニエブックス版を元にしているが、韓国ではその後、新たにタサンブックスからやはり全二十巻の『土地』が出た。
『土地』の主人公は大地主の一人娘崔西姫[チェ・ソヒ]だ。しかしそれ以外にも重要な役割を果たす人物が多数登場する。第一部で活躍していた若者は年老いたり途中で亡くなったりして、成長した子供や孫が後半で大きな役割を担う。人物の性格は固定的でなく、状況に影響されながら複雑に成長あるいは変化してゆく。副主人公とも言える人々や彼らの家庭の来歴を見守りつつ、物語は重層的に展開する。
朴景利は、自分の性格は自尊心の強い崔致修[チェ・チス](西姫の父)に近いと語ったそうだが、作家の姿は『土地』に登場するさまざまな人物の中にちらついている。本人がほとんど語らなかったために作家の若い頃のことは謎に包まれた部分が多いけれど、最初の夫は日本留学中に独立運動に関わって逮捕され、朝鮮戦争中にも左翼であるとの嫌疑を受けて投獄されたと伝えられる(この頃死亡したという説も、北朝鮮に渡って長生きしたという説もある)。夫がいなくなってからの朴景利は、それまで暮らしていた仁川[インチョン]から故郷である統営[トンヨン]に戻って子供と共に細々と生活したらしいが、反共を掲げる政権下では生きづらかったに違いない。その心境は『土地』一部で夫が殺人犯として検挙され、幼い子供を抱えてさまよう〈任[イム]の母〉の気持ちに通じるはずだ。
統営で朴景利は結婚歴のない小学校の音楽教師と再婚したものの、周囲から冷たい目で見られて結局は別れたと、幼なじみが新聞のインタビューで証言している。登場人物の一人吉麗玉[キル・ヨオク]が離婚後に出会う崔翔吉[チェ・サンギル]が元音楽教師であるのは、そのことと無関係ではないように思える。また、朴景利の息子は同じ時期に事故死している。西姫が故郷を離れて満州に行き、帰国後も故郷ではない晋州[チンジュ]に落ち着いたように、作家は悲しい思い出に満ちた故郷を離れ、長い間帰らなかった。
朴景利は教壇に立った時期もあるが、『土地』の重要人物の一人である内向的な明姫[ミョンヒ]と同じく、教師に向いていないことを自覚していたのではなかろうか。人気作家となってからも、娘婿となった詩人金芝河[キム・ジハ]が独裁政権を批判して死刑宣告を受けたり、自身ががんにかかったりするなど、悩みは尽きなかった。
登場人物のうち、現実の作家に最も近いのは尚義[サンイ]だ。十八巻以降で尚義は、朴景利の経歴と同じく1940年代前半の晋州で高等女学校に通っている。尚義の父、弘[ホン]が一時期トラックを運転していたように、朴景利の父親も運送業を営んでいたようだ。無口で教室では目立たないけれど天皇主義者の教師に反発し、規則の厳しい学校や寮での生活になじめず読書に熱中しながらこっそりノートに文章を書き綴る尚義は、少女時代の朴景利の姿なのだろう。
学友や教師についての描写は実に細かく具体的だ。合同防空演習という殺伐とした行事の最中にも男子中学生と高女の生徒は互いに盗み見ながらひそかに胸をときめかせる。高女では女子同士の疑似恋愛が流行している。生徒たちは週末、寮の部屋に集まってこっそり化粧をしたり禁止されている朝鮮語で話したりして教師に叱責される。それでもプライドの高い生徒たちは団結してその教師を困らせようと画策したりもするのだ。ここには、経験した者だけが語れる、暗い時代のリアルな青春が描かれている。『土地』は、何よりも作家自身の経験や感情が息づく物語だ。
初出:『韓国・朝鮮の心を読む』(野間秀樹、白永瑞 編、クオン)