Book Review「魚と倫理と鉛筆と」(『黒山』金薫著・戸田郁子訳)

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Book Review
「魚と倫理と鉛筆と」 レビュアー:山岡幹郎

海のなかを泳ぐ魚一匹一匹が群れて魚群となり、洋上に影をつくる。島の丘に立つ人の目は遠く泳ぎ去る群れの影を追い、さらに魚一匹一匹の鰓の動きにまで観察と想像をめぐらす。小説『黒山(フクサン)』は、朝鮮半島の南西端の遥か西方の沖に位置する流刑地「黒山島(フクサンド)」に丁若銓(チョン・ヤクジョン)が流されるところから始まる。彼はその黒山で魚に関心を寄せ、博物誌『玆山魚譜(ジャサンオボ)』を著した人物である。この小説の著者である金薫(キム・フン)は、丁若銓が魚に向けたその目線に自らの歴史を見る目を重ねてこの作品を書こうとしたようにも見える。決して英雄豪傑が歴史をつくるわけではない。一匹一匹の魚が集まり群れて流れをつくり水面に光跡を残すのだ。これが著者の伝えようとしているメッセージの少なくともひとつであるように思える。この小説には歴史に名を残す王、王族、両班から様々な生業の市井の人々に至るまで多くの人物が登場する。作家がその彼らに注ぐ眼差しには分け隔てがない。

この小説は19世紀初頭、朝鮮王朝下の天主教(ローマ・カトリック)に対する迫害を扱っている。日本にも切支丹弾圧を背景とした小説はあるが、すぐに思いつくのは遠藤周作の『沈黙』だろうか。実際、『黒山』の読後に『沈黙』を読みなおしてみる意味は日本の読者にはあるかも知れない。迫害の惨さや執拗さが描かれている点では同じであっても、この二つの小説の間には当然大きな差異がある。例えば、遠藤の叙述は話の進行にともなって二人の人物、主人公の宣教師とその彼に影のようについて歩く一人の日本人にどんどん収斂していき、二人以外のとくに民衆個々の表情が後景に退いていく印象がある。それに対して、すでに見たとおり金薫は多くの人物に目配りしながらストーリーを展開させている。この際立った違いはどこから来るのか。そこには単に二つの小説のテーマの違いということだけでは片付けられないものがあるように思えるのだ。

この数年、韓国文学に触れるようになって気づくことがある。多くの作品が社会への問いを持っているのだ。社会がどうあるべきか、その社会のなかに自分たちがどう関わっているか。そうした問いが、個々の作家の視点として確保されている。いまここではその視点を社会倫理と呼んでおくが、もちろん金薫のこの小説も例外ではない。

『黒山』のなかの印象に残る言葉のひとつに「今年の迫害はひどいものでした。人間がどうしてこのような極端なことができるのでしょうか」(357頁)というのがある。これは天主教徒の中心人物であるかのように見なされ追及された黄嗣永(ファン・サヨン)が残した言葉として記されている。ここで「極端なこと」とは、拷問や体罰刑を指しているが、それが生半可なものでないことをこの小説はしばしば描いている。それは人の体に極めて深刻なダメージを与え、容易に人を殺す。人が人にどうしてこのようなことができるのか。そうであってよいのか。これは作家が読者に伝えようとする社会倫理についての問いのひとつであることは間違いない。

一方、遠藤が『沈黙』で描いているのは信仰する者としての個人倫理だ。確かに凄惨な処刑や拷問の場面が書き込まれているが、そこで主人公に仮託して遠藤が問うのは神の沈黙である。その沈黙の前で自分が棄教し転ぶか転ばないかが問われるのだ。残酷さをうちに含んだ社会は所与のものとして扱われ、それを問う視点はない。社会倫理が問われることはないのだ。

遠藤周作と金薫がともに力のある優れた作家であることに間違いはない。違いがあるのは二人の作家が各々の作品世界で描いた倫理の課題を受けとめる側、それぞれの社会と時代の側の姿勢なのかも知れない。社会や時代の姿勢は自ずと作家たちの作品世界にも反映されるのであるから。

最後にこの小説の文体について触れておきたい。魚が泳ぎ群れて流れを作ることは冒頭に書いた。作家のこの認識は、特徴的な短い個々の文が繋がって作品を構成している文体にも現れている。ひとつの思いが書き手のなかで分節されて単語になり、いくつかの単語が重なった文節が文を構成して文章世界を作り出す。作家の考えは文体にまで徹底しているかのようだ。

金薫の文章は日本語で読んでいても、不思議なドキドキ感をともなう。2005年に翻訳出版された『孤将』(蓮池薫訳/新潮社)もそうだったが、『黒山』でなお一層その特徴に磨きがかかったようにも見える。それはストーリーの奇抜さなどから来るものでは決してない。

翻訳者の戸田郁子さんが作家への信愛に富んだ「訳者あとがき」で書いているが、金薫は鉛筆で原稿を書くという。戸田さんのインタビューに金薫は「鉛筆で書けば、私の体が文字を押し出していく感じがある。この生きている肉体の感じが、私には大切だ」と答えている。ドキドキ感の正体はこの「生きている肉体の感じ」かも知れない。翻訳であっても確かにそれは伝わってくる。


山岡幹郎(やまおか みきろう)
1950年東京生まれ。2016年まで高校で教員を務める。
1980年代半ばから写真を撮り始め、パレスチナを取材した写真展「壁/壁が人々の自由を奪う」(2016年)のほか、写真展「韓国幻視行」を2019年5月ソウル、同年7月に東京で連続開催。
著作にフォトエッセイ『パレスチナ・グラフィティ』(麻布文庫)、フォトブック『壁/壁が人々の自由を奪う』(PHOTOPRESSO)など。