崔仁勲著『広場』序文一覧

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このたびクオンでは、「CUON韓国文学の名作」001として崔仁勲著『広場』を新訳で刊行します。

『広場』は何度も版を改めているため、著者による序文にも複数のバージョンがあります。「CUON韓国文学の名作」では1961年版序文を掲載していますが、その他の序文をここにご紹介いたします。(翻訳:吉川凪)


文芸雑誌『夜明け[セビョク]』1960年11月号掲載時の序文

メシアが来たという、二千年来の風の噂があります。

神が死んだという噂があります。神が復活したという噂もあります。コミュニズムが世界を救うだろうという噂もあります。

私たちは実にたくさんの噂の中に生きています。噂の地層は厚く重いのです。私たちはそれを歴史と呼び、文化と呼びます。

人生を、噂を聞くように生きるのは悲しいことです。噂に満足せず、現場を訪れる時、私たちは運命に遭遇します。

運命に遭遇する場所を広場と呼んでおきましょう。広場に関する噂もさまざまです。私がここに伝えるのは、噂に満足せず現場に留まろうとした、我々の友人の話です。

アジア的専制の椅子に座り、民衆には西欧的自由の噂を聞かせるだけでその自由を生きることを許さなかった旧政権下では、どんなに書きたくともこうした素材は扱えなかったであろうことを考えると、あの輝かしい四月*によってもたらされた新しい共和国に暮らす作家としての喜びを感じます。

*訳注 【あの輝かしい四月】 1960年4月に李承晩政権を倒した学生革命。 同年6月に改訂憲法と新しい選挙法が制定され、7月の総選挙を経て8月に最初の国会が開かれた。それから翌年5月に朴正熙が軍事クーデターを起こすまでの政体を第二共和国と呼ぶ。


1973年刊 民音社版序文

序文――李明俊の鎮魂のために

私は12年前、李明俊という潜水夫を想像の工房でつくり、生の海の中に送り出した。彼は<イデオロギー>と<愛>という深海の隠れた岩に引っかかって、二度と浮かんでこなかった。

何人もの人が私を非難した。その隠れた二つの岩について十分に教えもせずに、そんな危険な深海に送り出し、将来有望な青年に世を捨てさせたことを責められた。その人たちは正しい。しかし隠れた岩について知っていたなら、誰が潜水夫を送るものか。我々が人生を知らずに人生を始めなければならないのと同じく、小説家は人生を知らなくとも主人公を人生の深みに送り出さなければならない。そうして彼が生還する場合、彼の口から恐ろしくて悲しい海の底の話を聞くことになるし――戻って来られない場合は、彼の連絡が途絶えたことによって、深海の恐怖を知る。

李明俊はその暗礁を避けることはできなかったが、そこに至るまでの海の底の地理や深さについては送信してくれた。

李明俊の後にも、私は少なからぬ数の潜水夫を続けざまに同じ海域に送った。

言うまでもなく、ひょっとして今なら李明俊も生命を維持できたのではないかと思うほど、深海の情報を得ることができた。

だが悲しいかな、ひとたび行った人には何の役にも立たないのだ。

ただ心を慰める一つの方法は、今、私の手元に蓄積されている、上手に使えば多くの潜水夫たちに役立つ深海の情報を最初にもたらしたのは李明俊であり、彼は何も案内のないまま海の底に降りた勇士であったと再確認することだ。

12年前に執筆した『広場』は、まさに勇士の記念碑であり、墓碑銘だった。その歳月が過ぎた今、私はこの墓碑銘に付け加えるものも、削除するべきものもない。

ただ、いくらか風塵に覆われた碑面を洗い流す作業をした。

李明俊、わが友よ。今も昔も変わらぬ私の友情を受けてくれ。そして安らかに眠れ

1973年7月1日
著者


日本語版に寄せて*

この地上に人が暮らし始めたのもずいぶん古い話だが、これからも人はずっと生きていかなければならない。

人は皆、この世に暮らしながらそれぞれ何らかの価値観を持って生きてゆく。

ところでその価値観は、ある程度はっきりとしていることもあるが、そうでないこともある。人は草木や動物と違い、それを持って生まれるのではない。生きていく間に相手から教えられ、自分で悟ってゆかねばならないというのが、人の暮らしの難しいところだ。

それなのにその価値観を誰も教えてくれず、独力で悟るのは独力で生まれるのと同じくらい難しい時代なのだから恐ろしい。

こうなると、人はあわてふためく。判断の基準がないから、あわてざるを得ない。

かといって、この世がなくなったり、終わったりするのでもない。世の中はそのまま存続する。そこに暮らす人たちが価値観を持っていようがいまいが、関係ない。そんな時、人は生きているというより、ただ命を永らえているというのが正しいだろう。つまり草木や動物のように、理解できない力に押されるまま、時間と空間を占める。そんな生き方を望まない人たちはどうするのか。何とかして、その価値観を調べだそうと努力する。頭の中にある脳みそを絞ってみたり、身体を動かしてみたりする。しかし、脳みそを絞ったり身体を動かしたりすると、彼らは鉄条網やコンクリートの壁にぶつかってしまう。垣根の向こう側をのぞこうとでもすれば、たちまちけがをする。

ここで挫折してしまえば、その人は、生きるということを、何か神秘的なものの仕業のように思うようになる。恐ろしい断崖絶壁などには近づこうともせず、見慣れた、歩き慣れた路地だけを選んで歩き、せめて温かい人の情だけは逃すまいとする。

しかしこんな時代にまた別の道を行く人たちもいる。鉄条網やコンクリートの壁のほうを選んで生きる人々だ。こんな人は、ある価値観を得たと、自ら信じている。しかしほとんどの場合、彼らの価値観は、何か捨てにくいものを捨てない限り、得られない。捨てたもの――それは何だろう。大切な何かだ。捨てがたい、捨ててはいけない、何かだ。それを失うまいとする気持ちを乗り超えた時に得られる価値観がもたらす平穏に、気が進まない人たちも、同時に存在する。

この物語の主人公もそんな人物だ。草木のように生きるのもいやだし、かといって、計算しつくせない所を残忍に切り捨てて生きるのも気が進まない人物だ。

偉大な人物なら、この袋小路から抜け出す力があるだろう。しかしこの主人公にはそんな力がない。そしてこの主人公と同じ時代に生きる多くの人々にも、そんな力はない。つまり、彼が物語の主人公になったのは、彼が偉大だからではない。むしろそうなれないからこそ、多くの人の運命を、多かれ少なかれ象徴するものとして、この小説に登場したのだ。

主人公が遭遇する運命は、あまりに唐突で、手に負えなかった――そういう理由で彼は破滅に至るほかはなかった。このこともまた、主人公の生涯だけの話で終わるとは言えない。この国土で同時代を生きる多くの人たちが遭遇した運命なのだ。

小説の主人公は、実在の人よりも多少、明確な行動をしなければならない。そういう意味で、この主人公が歩んだ道も、それなりに状況を明らかにする役割だけは果たしたと見ることはできないだろうか。

残ったものは、生きている人たちが、生きていく過程で自ら解決すべき宿題だ。

ただ漠然と生きているだけで解ける問題であるはずはないが、ともかく生きなければいけない。そしてここからは、小説ではなく歴史になってゆく。

生きている者の一人として、作者はこの小説の主人公に対して偉そうに言える立場ではない。彼が倒れた地点から、一歩も踏み出せていない気がするのだ……。

⋆訳注:『現代韓国文学選集 第1巻 長編小説Ⅰ』(冬樹社、1973)に黄順元『日月』と共に収録された、金素雲訳『広場』に寄せた序文らしいが、実際には同選集の「月報2」に「作家ノート――李明俊という男」というタイトルで掲載された。


文学と知性社『崔仁勲全集』第1巻 1976年版所収の序文

今回の改訂版では、漢字語をすべて非漢字語にした。芸術としての小説の文章の本質は、表記法によって高くなったり低くなったりするのではなく、また決定されるのでもない。表記によって表現しようとする心象によって決定されるのだ。しかし慣例的表現と、ある心象が長い間結合して使われていると、心象の形成過程――意識と現実の間の新鮮な葛藤の痕跡が、慣例的表現ではじゅうぶんに表わせないように見える現象が起こり得る。そんな時、その表現が古くなったのではないかと疑ってみるのがよい。こんな現象が起こる理由はいくつもあるだろうが、その一つは、意識がより深く現実に寄り添う力を持つ時だ。

『広場』は今回で5度目の改訂だが、私は数度の改定という過程を経て、少なくとも『広場』の作中現実については、初めに書いた時よりずっと慣れたと思った。それで今度の改定では、何をつけ加えて何を削り、プロットのどこを変えて整合性を図るべきかが、自然に見えてきた。

次に、漢字語を非漢字語に直した。わが国の小説の文章は、漢字語をハングル表記にするため、芸術としての言語表現の本質である意識と現実の葛藤という過程を既成の漢字語で表しているのに、それと気づかなくなるという、表記による陥穽を隠し持っている。この問題を解決するのに、必ずしも非漢字語に変えなければならないわけではないが――すなわち、その漢字語を文脈の中でもっと綿密に定義するのもいいのだろうが、それはひどく面倒だ。

この版では非漢字語に変える道を選んだ。しかし慣習からあまりにも離れてしまう時には、そこに留めておくことにした。それでも量的には、そのままにしたものはそれほど多くない。

このような表記上の変更以外にも、表現も変えた方がいいと思った部分は、目につき次第、変更した。こんな作業が可能だったのは、作者の事情により、時間の余裕ができたためだ。

上のような改訂が、読者が李明俊という人物や彼の歩んだ道をいっそう身近に感じるために、少しは役立ったのではないかと思っている。

1976年7月
著者


文学と知性社『崔仁勲全集』第1巻 1989年版に寄せた序文

序文

この全集版が、横書きに変わった。これまで少しずつ定着してきた横書きの習慣と、新しい表記法に合わせたこの版が、読者にいっそう身近なものになることを願う。

この版でも何カ所か内容を修正した。大きな流れは変えず、その流れを少しでも助けられるようにした。

この作品が最初に発表されてから30年、小説の中の主人公が世を去ってからは40年近い歳月が流れた。主人公が経験した運命の性質のせいで、私は彼を忘れることができない。筆者はいまだに、主人公が生きたのとさほど違わない政治的構造の中に暮らしているからだ。李明俊は、自分の生きた社会が、40年後にこんなふうになると想像しただろうか――。ふと、そんなことを思う。本人ではないから断言はできないが、おそらく無意識のうちに、現実の結果より、ずっと楽観的な展望を持っていたのではないかと思う。彼は韓国人が人生について、どの時代よりも切実な夢や希望に包まれていた時代の人間だ。結局、彼は生前、そんな夢や希望が――少なくとも彼が感じたほどには、たやすく実現できそうにないことを知ったのだが、40年が過ぎた後、現在のようなことになるとは、想像できなかっただろうと思う。主人公はともかく、作家である筆者について言えば、これを書いている当時、主人公があれほど苦しんだことの結果が、こんなに長く尾を引くとは予感できなかった。筆者自身の気持ちなのに、はっきりとは思い出せず、ぼんやり――今振り返ってみて、そんな感じがする。主人公が悩んだ人生の問題には、時代に深く関わる部分と、そうでない部分があるのは事実だ。しかしそうは言っても、その二つをはっきり分けられないのが人生というものだ。<問題>という言葉は比喩的に使っているに過ぎないのだ。まずこの問題はこうして、次にあの問題はああしてというふうにはいかない。そんなものに比較的ふさわしい形式が小説でもあるから、主人公に会うのは読者としての自分に会うことだという自己認識に戻る。

今度の版で修正した部分でも、その頃の主人公の能力と自然さを変えずに、あの頃のあのような青年の生活や思考の雰囲気を維持しようと努めた。

1989年4月30日
崔仁勲


文学と知性社『崔仁勲全集』第1巻 2010年版に寄せて

読者に

この春、増刷本に新たな改訂を加えました。主人公のその当時の気持ちと外の世界の関係をもう少し自然にするために、どう描写すればより適切に読者に伝わるかを考えた末の修正です。初版本のその部分にまったく蓋然性がないとは言えないものの、主人公にちょっと重すぎる荷を背負わせたのではないかという感じが、ずっとしていたからです。初版本で意図した効果を失わず、しかも強調しすぎないように直すのが、作者が主人公を助ける道だと思ったのです。どうか、これからの読者にも助けになれることを願っています。

2010年秋
著者