「現代」を鳴らしたうたは、永遠に生きて響くうた──『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』を読んで/加賀谷 敦(あんず文庫)

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 表題作「むくいぬ」を初めて読んだとき、私のこころがきゅっと鳴いたのを憶えています。「あなたの夜を守っていた」生きものが見せる純真と、静謐な夜に浮かぶきらめく月。その光景が、どれほど美しく、穏やかなものだったか。同時に、手の届かない「あなた」を切なく儚く、そして清潔に詠うこの作品をわが身に浸透させたとき、私は詩というものに再び出会ったのです。書いた詩人は、鄭芝溶(チョン・ジヨン)(1903?〜1950?)。詩人が見つめた景色と「とき」へと、ぐんと引き込まれてしまいました。

  「むくいぬ」

 あの時 あなたの夜を守っていたむくいぬは 愛されるだけのことはありましたね 頑丈な垣根に枝折り戸も固く閉ざされていたのに 扉も障子もあったし 部屋の中では蠟燭の火がそっと明るく照らしていたのに 雪が積もった小道は人の気配もなかったのに 寂しさに耐えられなくて あんなに吠え立てたのか 氷の粒が小石をかき分けて流れる小川の ざあざあという音が入って来やしないかと 大きな峰を回り まん丸に溢れ出ていた夜更けの月も ひょいと落ちて来やしないかと あちこち見回っていたのか むくいぬ それも無理はない 私など あなたはもちろんのこと あなたの物にすら 触れられないのです むくいぬ 吠えるやいなや みすぼらしいひげを巻き あなたの脱いだきれいな靴の番をしながら 眠っていました

 お恥ずかしいことに、この詩人の名こそ聞いたことがあっても、本書を開くまで作品には触れたことがなく、詩世界の像もぼんやりとしていました。茨木のり子を通じて知った詩人、尹東柱を調べていたときに、おそらく名を知ったのだとおもいます。しかし、その二人と繋がっていることから、輪郭をくっきりとは描けないけれど、その線にまとう空気や色味をある程度は想像していたつもりでした。きっと、清らかでいて芯があって。それに、尹東柱が尊敬していたというんですから、超然とした凄みのある詩世界なのだと。本書を読み通したあと、その想像は確信に変わるところもあれば、一方でまた新たな像を与えてくれたのです。

 『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』は、大きく分けて二部構成になっています。一部は、二冊の詩集から選ばれた詩篇と、未収録だった詩篇を編んだもの。二部は、韓国語で書かれたエッセイと日本語で書かれたエッセイ、そして散文詩一篇を編んだもの。

 最初に収録された詩は『鄭芝溶詩集』(詩文学社、1935)から38篇。鯨の横断によって湧く白波や光り羽ばたく海鳥の姿、そして春の香りが立ち込める詩「海 1」で幕を開けます。

 「海 1」

 鯨が横断すると
 海峡が天幕みたいにはためきます

 ……白い波が湧き上がり 小石は下に落ち

 銀の滴となって浮かぶ海雲雀……

 半日狙っています あの赤い身を奪おうと

   ◆

 ワカメの匂う岩陰で
 躑躅色の貝が日なたぼっこ
 青ツバメは羽を広げて滑ります
 琉璃みたいな空を
 海がすっかり見通せます
 青竹の葉っぱ色の
 海
 春

   ◆

 花のつぼみが吊るし電球みたいに並んだ
 小さな山に──しているのでしょうか

 松の木や竹で
 いっぱいの森に──しているのでしょうか

 黄色と黒のまだら模様の
 ブランケットを巻いてうずくまる虎に──しているのでしょうか

 あなたは〈こんな風景〉を連れて
 白い煙みたいな
 海を
 ずっとずっと航海してごらんなさい 

 この詩では、新たな情況に臨む心境をイメージに込めて散りばめるだけでなく、あえて詩中にブランク(「──」)を含ませる表現が繰り返されます。読者に記憶や風景の描写を委ねる技法も取り入れることで、まるで一体化するような感覚に陥るのです。鄭芝溶は、この詩集によって朝鮮詩に新たな時代をつくったと評されていますが、本書の冒頭この一篇を読むとその所以がわかることでしょう。

 また、この詩以外にも「海」や「故郷」を詠った詩が少なくなく、そのイメージを預かったまま異なる対象を書いた作品を読んでも、そこはかとなく漂う望郷のおもむきは、詩人が青年時に同志社大学へ留学していたことにも起因していると言えそうです。しかし何より、芝溶が詠う故郷とは、いつも変わらず自分を温かく迎え入れる安住の地ではもはやなく、奪われた地であったことが「遠くを望む」詩世界をより切実に近付けているのかもしれません。

  故郷に 故郷に帰っても
  懐かしいのは青い空だけ

 「故郷」という一篇には、感傷すら抱けなくなってしまった風景への哀しそうな眼差しと、もう引き返すことが出来ない境遇の引取りが感じられます。自分を生み、育てた故郷。それが、もう──。

 続く『白鹿潭』(文章社、1941年)からは10篇が選ばれています。詩篇は『鄭芝溶詩集』から、更に象徴的な表現を推し進めたような印象を受けますが、同時に対象から受ける感覚も更に純度を増しているようです。音像と映像がより立体的に浮かび上がる作品は、現代に読んでも鮮烈で、詩の可能性を広げたと言っても差し支えがないでしょう。そして、未収録だった二つの詩篇にも、詩人に流れる清冽と詩へのあきたりない追求心が感じられます。

 一方で、エッセイや散文詩によってもこの詩人のイメージがより明らかにされてゆくのです。京都時代を追想しながら浮かぶ、陽の当たらない人たちへの慈愛や郷愁。理不尽に対して抱く疑念と怒り。師事する北原白秋への畏敬を表明しながら伝わってくる、矜持と謙虚。そして、慎ましくも確かに感じる情と、こころ。

 芝溶は身体で受け止めたことを直裁に奮わせて表すのでなく、あくまで澄んだ感覚を呼応させて作品に刻んでいった詩人だったことが分かります。深刻な情況にあったことが想像できる作品でも、どろっとした粘度がなく、どこかぽかんとした朗らかさすら感じさせるのは、その人間性のみならず卓越した言語感覚と言葉への信頼が生んだ一つの奇跡というのは、果たして言いすぎでしょうか。

 と、ここまで二部構成と内容について自分なりに掘り進んだつもりですが、本書を完成させているのは、紛れもなく訳者の吉川凪さんによる丁寧かつ詳細な解説と年譜なのです。知られるべき作品や作者が、時代の折り目に隠されて知られていないことほど、もどかしいことはありませんし、それゆえ、汲み上げられて巡り会える喜びといったらありません。

 未知なる美しい作品にこころを撫ぜられながら、捉えるべき源流に出会い、知の網をさらに紡いで広げること。本を通じて、埋もれていた作品に触れ、時代と普遍の感覚を知る、という読書の醍醐味もあふれた一冊と言えましょう。

Profile
加賀谷 敦

1993年生まれ。2019年、東京大森にて古本屋「あんず文庫」を開店。
古本のほか新本も置き、店の奥のカウンターでは珈琲や洋酒も提供しており、書き言葉と話し言葉のつながりを模索中。
https://anzubunko.stores.jp/about

 


CUON韓国文学の名作004『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』
著者=鄭芝溶/翻訳=吉川凪
ISBN 9784910214320
2021年10月発売
価格 ¥2,200(本体¥2,000)
http://shop.chekccori.tokyo/products/detail/4298